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5/26、「しぜん研C」(金曜)、初開講の記録。
体験参加の方も含め、1年〜4年生まで、6人の小学生が集まってくれました。
前日のクラスと同様に、ロープや軍手など、それぞれに装備を携えて出発しました。
基本アイテムとして、「リュックに水筒」を生徒さんには持ってきてもらい、その都度教室から持っていく道具は、生徒さん自身がリュックに入れて準備することにしています。
山道では、いい香りのする葉っぱ(杉の新芽)や、ちょうどよい杖(落ちている太めのクスノキの枝)、切り株からこんもり生えたかわいい新芽、アリの大群…など、発見が尽きません。そのつど発見者が声をあげ、みんなが覗き込みます。
また、同じ一本道でも、少し脇に入ると人が踏み固めたのとはまた違う道を見出すことができます。少し歩きにくいですが、ただ当たり前の山道を行くだけよりもそれが楽しいことを、既にわかっている子たちもいます。
そのようにして進むので、Cチームのみんなは大変ゆっくりした足取りでした。そのため、密かに私がこの日の仮想目的地と考えていた山の頂までには時間的に至らなかったため、途中で来た道を引き返し、その代わり、途中で脇に降りられそうな谷などがないか、寄り道できる場所がないか、きょろきょろしながら下りました。
ここなら降りていけそう、という感じの場所を見つけ、木立の間を縫って降りていくと、小さな谷筋に出て、そこに真横に大きな倒木が一本橋になって架かっているのを見つけました!
何だか面白そう!ということで、さっそく携えてきたロープをその一本橋に引っ掛けて、ブランコをしたり、そこに木の枝をつけてグライダーのようにぶら下がったり、或いは一本橋を渡ろうとするチャレンジが始まりました。
この日は、お天気は何とか保ったものの、終日曇り空だったため、森は少し薄暗かったですが、教室が終わるまで始終、対話の途切れない一日で、絶えず誰かと誰かが、私と誰かが話し続けており、それぞれに心を解き放つ時間だったのではないかと思います。
一方で、やはり、初めての場所ということと薄暗さが相まって、「ちょっと怖い感じ」を受けた子もいました。それも、森が元来持っている、ひとつの表情だと思います。
季節や日の傾き具合などにより、1日たりとも同じ表情を見せないのが山であり、森です。
キラキラと明るく賑やかな森もあれば、おだやかで静かな森もあります。
また、同じ明るさでも、その時の気持ちによって感じ方は変わるのかもしれません。
今回、体験のみだった人も、ひきつづき参加してくれる人も、森や山の色々な顔を知り、これからも「しぜん」の色々なものたちを好きでいて欲しいですし、可愛がったり、面白がったりして欲しいと願っています。
5/25、「しぜん研B」(木曜)、初開講の記録。
体験参加の方も含めて、小学校1〜4年生の5名が集ってくれました。
教室が始まる前、私が20mのロープを2.5mずつに切り分けていると、早く到着したk君、s君がその作業を手伝ってくれました。
それを見たkaoちゃんが、「もっと長いのは?」と提案してくれました。確か、教室の長手方向が5mくらいあったはずなので、長さを図ると5mちょっとあり、残りのロープを合わせてみると、部屋の長さぴったりでした。
みんな揃ったところで、それらを携えて、山に入りました。
途中で「ツーツーピー、ツーツーピー」と鳥の鳴き声がして、「シジュウカラだよ。もう少し『ツーツーピー』がゆっくりめだったらヤマガラ。」と、鳥博士のk君が教えてくれました。
途中、左手に斜面を見上げ、右手に崖を見下ろす細い道が一箇所あり、特に注意して通りましたが、小1のs.a君も全く怖がることなく、うまく木に捕まりながら、通ることができました。
そこを通り抜けると、平らな尾根道に出ました。少しいくと、ぱっと明るくなり、右手の谷越しに、眼下に広がる街を眺められる場所に出ました。
誰に言われるともなく、「せーの…、ヤーッホーーーッ」と、何人かが街に向かって「ヤッホー」すると、みんなで声を揃えてもう一度「ヤッホー」をしました。
声は景色に吸い込まれたまま帰ってきませんでしたが、遠くの空をみやると「光の階段」が雲間から一筋、街に降りていて、みんなでうっとり眺めました。
さらに尾根道を進んで、とある山の頂に辿り着きました。ここは、以前から私が担当していたクラスに参加してくれていた人は、何度か来たことのあるはずの場所です。着いてまもなく、「あ、ここか・・・!」と、全く違うルートから辿り着いたことを、新鮮に感じてくれたようです。
ここで大縄をしたり、綱引きをしたりしたあとは、来た道を戻りました。
最後は教室まで、例の「長いロープ」でみんな繋がって、電車になって帰ってきました。
まずは、時間内に行って帰ってこられる範囲の道のりを知ることができた日でした。
5/24、幼児対象の「えがく」、初開講の記録。
年中のyちゃん、aくん(体験)、その弟さんも飛び入り参加してくれました。
最初は、「何に見えるかな」という絵描き遊びからはじめました。
あらかじめ描かれた幾何学的な図形や線などを手がかりに、線を描き足したり色を塗ったりして、自由に描く取り組みです。
たとえば、マルがふたつ並んでいたら、「自転車(のタイヤ)」、「目」など、子どもたちは、そこにないものも補って答えてくれます。私が横で、この「並んだマル」の上にそれぞれ小さいマルを描き足し、鳥の顔を描くと、(私は大きいマルの方を鳥の胴体に見立てるつもりでしたが)「たまごから生まれたね!」といって、aくんが、ヒビを描き入れてくれました。yちゃんは、2つのマルを、並んだ2つの顔として捉え「センセイとわたし」という絵を描いてくれました。
半弧のような線が描かれていれば、それをaくんは補ってマルにし、顔にしてくれましたし(題名は、「すごくベロの長い人」!)
ジグザグ線を見たyちゃんは、それを猫の耳に見立て、となりに人物も描き、可愛い絵にしあげてくれました。
途中休憩のとき、生徒さんが控え室にたまたまあったビー玉転がしのおもちゃに気を惹かれていたので、「センセイもお描きのビー玉、用意しているよ!」と再び制作室に誘い、絵の具遊びをしました。ビー玉をコロコロ転がした軌跡が画用紙の上に広がり、また、手のひらいっぱいにつけた絵の具を押しあてて、たくさん手形もつけました。赤・青・黄しか出さなかったのに、途中で混ざり合って、新しい色が生まれていることを発見しましたね。
また一緒に、色々な絵描き遊びをしていきましょう!
えがく研C(金曜)2023年5月19日の、アトリエトリノス最初の記録。
小学生3名(うち体験2名)でのスタートです。
iちゃん(小2)は、水彩絵具の取り組みです。
まず、全部の色を、まっさらなパレットに出してもらいました。使うかどうか分からない色も、最初に全部出しておくことは、絵の勢いを止めてしまわないために、結構大事です。
最初は、上下二分割で画用紙いっぱいに色を塗っていきました。それだけでも風景がどこまでも広がっていくように見えたのですが、その上に、指先につけたえのぐで「てんてんてん…」というタッチの模様や、色々な線が広がっていきました。配色がとっても鮮やかで、奥行き感も出て、「まるで音が聞こえてくるようだね」と声をかけると、そのようにして3枚描きあげたバリエーションの絵はどれも「花火」をあらわしているということでした。
実際に見たことのある花火より、ずっと幻想的で、3部作で時間の経過も楽しめ、異世界の風景を見ているようでもありました。
体験参加してくれたs.a君(小1)、g君(小1)は、それぞれ工作に取り組みました。
工作をする二人には、材料を「くっつける」ために、どんな道具があるか、考えてもらいました。接着剤・セロテープ・木工用ボンド、など、色々と挙がりました。
場合によって、それらのどれを使えば一番効果的か、考えられるとよいです。そんなお話を最初に伝え、考えながら実践していきました。
s.a君は、「ロボットをつくる」と決めていて、メモ帳に設計図を描き、また、参考図書も持参してくれました。
胴体や顔は、ちょうどよい大きさの箱がなかったので、厚画用紙を折りたたんで、切れ目を入れて箱型にすることを覚えました。
最後はローラーと刷毛をつかって、胴体に着彩もしてみました。
g君は、「きょうりゅうをつくる」そうなのですが、持参した材料を中心に、そのパーツと思われるものをばらばらに並行してつくっていきました。
中でも特徴的だったのが、大きくテーブルに広げた緩衝材(プチプチシート)に、マジックでカラフルな色をつけていくのですが、一体それらの部品が、最後にどうなるのか見ていても分からず、ただ、手が一瞬たりとも止まることがないので、頭の中に完成予想図がきっとあるのだろうということが、よく分かりました。
二人とも、はやる気持ちのままに、集中してとりくみましたが、この日完成には至りませんでした。
勿論、そのことに何ら問題はありません。試行錯誤を繰り返しながらじっくりと取組み、作ったものを振り返ることで、次はもっとこうしよう(こうすればよかったのか)ということも段々分かってきます。
教室の最初にみなさんにつたえたことは、この時間は「強く思い描いて、それをかたちに表す時間」だということです。
決して大げさではなく、私はそのことを「生きる力を身につける時間」であるとも考えていますので、試行錯誤をたくさん重ねて、力と自信を蓄えていってほしいです。
記念すべき、アトリエトリノス試運転、第一回目の授業、
えがく研B(木曜)2023年5月18日の記録。
小中学生3名でのスタートです。
kくん(小3)は、自宅から鳥図鑑を持参し、それを見ながら気に入った鳥の絵を模写しました。
yちゃん(中1)は、石膏でできた幾何形体のデッサンに取組みました。
ymちゃん(小5)は、好きなアニメのキャラクターなどを模写して描くのが好きということで、今日は「名探偵コナン」の登場人物「灰原哀」の画像をじっくり観察して模写しました。
3人とも、今自分が一番好きなもの、やってみたいことを課題として取組みました。
教室に着いたkくんは、3月まで描き続けていた鷹・鷲のシリーズがあったのですが、「あれ、どうなった?」と私が訊ねると、「あれはあんまり…」というような返事が帰ってきました。2ヶ月前の絵を、もしそのように思うなら、それは、kくんが成長している証だと伝えました。私でも、描いたそのときは「会心の出来だ…!」と思っていても、時間が経つと「まだまだだなぁ…」と思うことがよくあります。そうしたことは、よくあります。毎度のことで、当たり前のことなのです。
だから、自信をもって「好き」を心のままに描き続けて欲しいです。
それから、「そのとき」描いたものだって、そのときのベストであり、自分自身なので、その時の絵を可愛がってあげてください。
鳥を描くにあたっては、どうしても図鑑の写真やイラストを頼りに描くことが多くなると思いますが、それらは鳥の特徴が一番わかりやすいポーズで描かれるため、似たりよったりの横向きのポーズで描かれていることが多いです。それにもかかわらず、kくんの描く鳥には、図鑑に描かれている鳥以上に、命が宿った感じがするのです。それは、彼が鳥を可愛く想う気持がなせる技であり、描くことのなせる技だと思います。
今後の発展として、同じ鳥の、色々な角度や仕草を探っていく課題も面白いのではないかと思っています。
yちゃんは、テーブルに白い紙を敷いて、その上に立方体を置き、まずは自分が描きやすく、よいなと思う角度、スポットライトを動かして良い感じの陰影を探るところからはじめました。まだ場数をそれほど踏んでいない段階ですが、ヒントは最小限に留めました。
立方体を少しずつ回転させると、こちらに見えている3面の陰の階調が、ちょうどばらばらに見えるところがあり、そこに決めました。
また、ヒントとしては、殆ど並行に見える辺同士でもほんの僅かながら、パースがかかっており、その意識ひとつで見え方が変わることや、イーゼルを使う利点、鉛筆の持ち方で、描ける線が変わってくることなど、テクニックというよりは、「意識」や「考え方」のヒントを示しました。
最後の方で、「この面、赤色っぽく見える」とyちゃんが言いました。なるほど、確かに赤っぽいです。
対話しながら確認できたことは、使っているテーブルの茶色が立方体に映ってそう見えていたことです。試しに青っぽいものをその面に近づけると、その面は青を映し出しました。yukiちゃんが光を繊細に捉えていた証拠です。
デッサンを通して、色々な発見をしていきましょう。
ymちゃんは、「灰原哀」を描くにあたって、まず「球体関節人形」のような下書きで「あたり」をつけてプロポーションを捉え、それから筆圧を変えながら緻密に模写して、最初の下書きを消していました。集中力を持続させ、モチーフをしっかりと正確に捉えている様子に、yちゃんも感心していました。
好きなものを捉えたいという、えがきたい欲求の原初的な姿をみたような気がしますし、私もよくやっていたことなので、懐かしく思い出していました。
そんなymちゃんのために、Gペンと黒インクを用意しておいたので、少し感触を試してもらいました。様々な方法で模写を続ける中で、表現の広がりを見つけてほしく、また、そのように導けたらと思っています。
3人の様子をつかめたので、今から次回の授業がとても楽しみです。
私自身、初心を忘れぬため、また、子どもの「描く行為」をどうとらえて向き合うべきかについて、アトリエの趣旨を理解して頂くために、過去に書いた文章をご紹介します。
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最近、授業をしていて少し気がかりなことがあった。
ある生徒が、絵を描く手を休め、時々周囲を見回しながら、画用紙とにらめっこを続けている。そっと近づいていき、「どう?」と声をかけると、「間違っていない?ここに、こういうのを描いてもいい?」と私に問いかけてくる。「勿論! いいよ。こうしてみよう!と思った通りに、描いてみればいいんだよ。何も間違ってなんかいないよ。」そう答えると、「あのね…」と言って、はにかむような仕草をしながら語ってくれた。
その子によれば、小学校の図画の時間、先生に「ちゃんと描きなさい」とか、「間違ってる」というような事を言われたのだそうだ。お友達にも、描いたものが、「それらしく見えない」というような指摘をされたという。本人は、苦笑いをしながら語ってくれたが、かなり傷ついたに違いない。他にも、絵を「訂正された」といった、似たような内容の告白をしてくれた生徒が何人か居た。
私の知る限り、その生徒たちは、例外なく、とても溌剌としており、ゆたかに空想を膨らませる力を持っている。描かれたものは、見る者に思わず笑みを溢れさせるような温かみをもち、ぐっと胸をつかまれるような作品を、何度も目にしてきた。
だから、このような生徒からの訴えは、大変ショッキングであった。「これは、ただ事ではない」と思った。
私は、小学校の図画教育を真っ向から否定しようなどと思わない。その恩恵を受けてきた一人であるし、小学校時代(〜高校時代までも含めて)体験した課題制作の全てが楽しかった。今でも何をしたか、全てを列挙できる。ただし、私は、決して自慢のつもりで言うのではないが、所謂「絵がウマイ」とか「絵がトクイ」と言われる生徒だった。このことは、私の自信になったし、誇りでもあった。
しかし、その一方で、「絵は苦手」「自分は全然描けないから」といって、さじを投げてしまっている友達が、何人も居たことも覚えている。「どうしてだろう? こんなに楽しいのに。」そして同時に、ちょっとした優越感も覚えた。
今になって、よくよく分かる。そうした優越感とは、至ってつまらない、ちっぽけなものであったこと。(そして、それを抱き続けたままもし大人になっていたとしたら、それは不幸であったこと。「間違った誇り」のままであったこと。)また、私が当時あまり注意して見なかった「友達の絵」の中に、無数の素晴らしい絵があったかもしれない、ということ…。
「課題制作」というとき、それは、一定のテーマや物理的条件、狙いを元に、「何かを体験させる」事なのであって、一定の成果(見栄えのする作品)に導くようなものであってはならない(特に子供時代は、と思う。)。
大人は、何気なしに「ウマイ」「ジョウズ」と子供の絵を褒めがちだが、ここには落とし穴も潜んでいることを、強調したい。端的に言えば、絵についての「ウマイ(ヘタ)」とは、無数にある絵のあらわし方(見方)における、観点の1つに過ぎない。つまり絵には、絶対的な基準というものが、存在しないのであるから、「合っている」「間違っている」も起こりえない。(間違えた、という言葉は、その絵の作者本人にのみ許された言葉である。)
今一度、「絵を描く」とは、何であるかを問うてみる。私が考えるに、絵とは「目的」ではなく、どこまでも「手段」に過ぎない。何の手段かは、人による。つまり、大切なのは、プロセスそれ自体である。テーマをどう解釈し、条件の制約をどう乗り越えるのか、という「方法」を、各々が工夫を重ね、失敗も味わってこそ、本当に意味があると思う。教室においては、この点に重きを置いている。
強く、何かを想い描くこと、そして、あらわそうと、諦めずに工夫を重ねること。教室で、子ども達に伝えたいことである。それには、必ず何か意味があり、決して大げさではなく、生きる上での力になると信じている。そしてまた、自らが絵を生涯とし、描き続けるという「プロセス」を体現し続けたいと思う。(梁川)