けんてつセンセイに訊いてみた
インタビュアー:I氏 × 講師:K
梁川 健哲/YANAGAWA Kentetsu
1976年、東京生まれ。大学時代から京都に暮らす。私立学校法人において約20年間「絵画・工作・森あそび」講師として勤務。
2023年4月に独立、「アトリエ トリノス」設立。
「描くこと」「子どもたちの心を応援すること」をライフワークとし、近年では特に、自らの知識や体験を子どもたちの活動へ還元すべく、自身の「山人力」研鑽に注力している。
・プロフィール
2004年、京都工芸繊維大学大学院 工芸科学研究科 造形工学専攻(建築コース) 修士課程 修了。
大学院在学中、絵描きになるという6歳時の決意を思い出し、そこへ立ち返る。
以後、水彩画、版画、絵本制作などを学びながら、内外の自然とむきあう。
己の小ささを噛み締めて生きることで人は幸せになれるのではないかと信じ、師である“自然のものたち”へ向け、畏敬の念をもって作品作りを続けている。
また、周囲の適切な言葉がけが、いかに子どもたちの自信を高め、逆に、何気ない不適切な評価が、いかに子供たちの表現の可能性を摘み取り得るかについて注意を喚起しながら、偉大にして小さなアーティストたちを日々見守り、応援している。
・最近の活動
2008年 第64回関西水彩画展 入選
(以後、2009年、2010年、2012年同展 入選)
2012年 作品展「ソコニコソ」/同時代ギャラリー
2013年 ビオトープガーデン「ひみつの庭」(某学校法人内)設計
2016年 奈良・町家の芸術祭はならぁとサウンドスケープコンポジションワークショップ ・アートディレクション
2019年 全日本芸術公募展 佳作 など
2024年現在は、人と自然との関わり方について知見を深めるため、里山関連の活動の輪を広げている。
資格・所属団体等:狩猟免許(わな・第一種銃猟)。チェーンソーによる伐木等の特別教育修了。日本焚き火協会認定焚き火スト。
「雲ヶ畑・足谷人と自然の会」会員、「京都森林インストラクター会」準会員
K: アトリエを開くにあたって、どんな形がよいか思い描く中で、「ひみつ基地」みたいな感じがいいなと思ったんです。実際、もう10数年、森の中で子どもたちと色々な形の「ひみつ基地」を作ってきたんですけど、子どもたちは(私自身も!)その取り組みは大好きなので、これからも大事にしていきたいなぁ…と。
「基地」は、辺りに落ちている枯れ枝などを集めてきて、壁や屋根を組んでいくんですけど、思い返すとそれって「鳥の巣」に似ているなぁ、って思ったんです。
鳥の巣は、『守り、育んでいく場所』ですし、学びの場としてしっくりきます。また、究極の「サステイナブル(持続可能)」なものですよね。がっちりした建築物を作るのと違って、時間が経つとほころびてくるんです。それをまた、子どもたちと修繕、リメイクすることを重ね、3歩進んで2歩下がりながら、形を留めていく(のみならず、成長していく)その姿が「生命そのものの有りよう」みたいだなぁ、とも思ったり…。
とにかく子ども達が「基地」と向き合う眼差しや姿勢を見ていると、感じるところが多いんです。子どもたちの能動性を引き出したり、子どもたちに安らぎを与えてくれたり。その意味でも「『鳥の巣』のような『ひみつ基地空間』」は、創造の場としてのアトリエにぴったりです。(基地づくりの良さについては語り出すときりがないですが、今後も伝えていきたいです。)
それから、長く関わってきた生徒さんの中に、何人か無類の鳥好きの子がいまして、その子たちとの想い出も関係しています。(その子たちの「好き」が見事に伝染し、私もすっかり鳥好きになってしまいました!笑)
誰かの(自分の)「好き」が、自分の(誰かの)「好き」になる、といった感性の響き合いが起こることもまた、集って創造することのよさです。
そうしたイメージたちが重なり合い、『アトリエ トリノス』に帰結しました。
『トリノス』って、不思議と近未来的な響きもありますね。
K:そうなんですよ、『惑星トリノス』とかね(笑)ありそう…(笑)
僕も最初[tórinos]と、「ト」にアクセントを置いて読んでいたんですが、試しにtorinosっていう単語がないか調べてみたところ見当たらず、かわりにイタリアの都市「トリノ(Torino)」ならありました。だから、イタリア人が読んだら[torínos](トリーノス)っていう感じになるのかなぁ、ということにも気づきました。
ちなみに、僕は髪の毛が天然パーマなのですが、子どもたちが僕の似顔絵を描いてくれる場合、髪の毛はかならず「くるくるくる…」というタッチの線になります。「そこまでのクルクルじゃあないハズなんだけど…(苦笑)」と内心思いながら、法則と言えるほど誰が描いてもそうなるのが面白く、興味深い発見です。子どもたちにとってはこういう印象なのかもしれません(笑)
(さらさらヘアで描いてくれたのは、t.satomiちゃんだけだったなぁ笑)
そういえば、こういうの「鳥の巣あたま」って言うんですよね。
なるほど、そこからも来ているわけですか!
K:いえいえ、そういうわけじゃないです!笑
いずれにせよ、[tórinos]でも[torínos]でも、自由に呼んで下されば幸いです。
だいぶ脱線してしまいました。
ところで、
K:単純に、「教室」とか「クラス」でもよいのでしょうけど、自由に何かを探求するイメージでいくと、「実験室」とか「研究室」っていいなぁ、と最初に思いました。
この京都市左京区では、自分自身も大学時代を過ごし、また、卒業して勤めてからも、大学生や研究者の方々と接する機会が多かったため、未だに大学生気分で生きているのですが(笑)、研究者って本当に面白いし、好きなものを追求している人はみんなどこか自由な空気を纏っていて、生き生きしているんですね。(勿論、苦悩も多いでしょうが、それらも含めて。)
あと、大学には色々な分野の「○○研(研究室)」があるし、部活やサークルにも「〇〇研」がありますよね。
ただ与えられたことをするのではなく、気になることや好きなことなど、自らテーマを立て、自由に追求していく感じがいいなと思ったんです。それに、「〇〇研」のような楽しいことは、大学まで待たなくたって、いいじゃないかと。子ども時代に今すぐ始めてしまえばいいのです。
だから、子どもたちには、アトリエの中に、勝手に「〇〇研」をいっぱい作っていって欲しいです。えのぐ研、紙工作研、版画研、ねんど研、どんなことでもよいです。そんなつもりで来てほしい…。それら「研究」のサポートを全力でさせてもらいたいと思います。
なるほど、よくわかりました。ところで、
K:選ぶことは難しくて、どの瞬間も特別で忘れたくないものです。
「森あそび」であれ、「絵画」であれ、子どもたちの試行錯誤する横顔、「いいこと思いついた!」という瞬間、1秒1秒の中に成長が内在しています。
敢えてとりあげるなら、昔こんなことがありました。
「あのね、先生…」と、何人かの小学生が、「図工のとき、作品について『間違っている』と言われた」「絵を直された」と、しょんぼりしながら訴えるのです。
さすがに耳を疑いました。
その子たち(二人ともIちゃん)のえがく絵は、例外なく、見る人の心をじんわり温めてくれるような、素敵な絵ばかりでしたので。
今ではその頃から比べると、ようやく「図工」における評価方法も見直されてきたとは聞きますが、地域差もあるでしょうし、子どもたちからの話を聞く限りでは、旧態依然の部分は少なからず残っていると感じています。
つまり、一部の大人が決めた「こういうのを『よし』としよう」という一定の基準で子どもたちの表現は測られ、優劣をつけられ、点数化されてきた事実です。
よく地域合同の「かいが展」をやっていますが、見事に「お手本」に適う作品ばかりが並んでいることがあります。一見して、見ごたえを感じさせるのも確かですが、何だか物足りなく、面白みに欠けるなぁ…、なんて、私は思ってしまうんです。
なるほど、選ばれる子もいれば、そうでない子もいる。あの子はいつも絵が上手くて、あの子はそうではない、というの、何となくありますよね。
K:その「絵が『ウマい』」っていうのが、とってもクセモノなんです。
ここ最近でも、教室にあたらしく来てくれた生徒さんの口から「誰々っていう子は絵が上手くてね」とか、「私はあんまり絵が上手くないから」といったセリフを聞くことがありました。
いかに周りの大人達が、意識的であれ、無意識的にであれ、子どもたちの絵を「上手い/下手」で測ってきたか、(そして、今でも測っているか)の現れだと思います。
私の一つのこだわりとして、その弊害を避けるため、「ウマいね」とか「ジョウズだね」という言葉は子どもたちへ使わないことにしています。
このことについては長くなってしまうので、別の機会にお話できればと思っていますが、ごく簡単にいうなら、子どもたちの絵には、それぞれ一人ひとりの「よさ」だけがあるのであって、大人はそれを見逃さず、ありのままに、その子に伝えるのがよいと考えています。(もっと言えば、子どもにも、自分とは違う表現をしているお友達一人ひとりの作品の「よさ」を見つけられるよう、大人が導く必要があると思います。)
また、出来あがった作品だけを見るのではなく、そのプロセスをしっかりと見守ることが大切です。
(>>「トリノス日記」>「子どもにとっての美術」を御覧ください)
コンセプトを伺いますと、「えがく研=表現(アウトプット)」「しぜん研=体験(インプット)」というように捉えられるかと感じました。
K:確かに、そのような側面は強いかもしれません。しかし、どちらの「研究室」の中にも、「体験⇄表現」の両方が目まぐるしく行き来する、というのが本当だと思います。
例えば、「えがく研」の中では、新しいモチーフや画材とふれあうことは新鮮な体験であり、生き生きした表現へつながりますし、一方、森の中では必ず面白い発見があって、子どもたちからの言葉や行動による表現が絶え間なく溢れてきます。
ですので、両方の受講が一番お勧めですが、勿論どちらか一方だけでも歓迎です。お子様の興味の対象にあわせ、また、日常生活とのバランスを見てご無理のないよう、お決めいただくのが最もよいかと思います。
基本的に、クラス制・学期単位としているのは、生徒さんの試行錯誤のプロセスを継続的によく見ながら導いていくための必然です。
先程も申しましたが、この「プロセス」が大事なんです。子どもたちの心の成長、仲間との切磋琢磨、絆、季節の移り変わり、そうしたものによって紡がれていく、「台本のない物語」こそが、「生きているという感覚」を生み、「世界は素晴らしい」と思える感性を育むのではないでしょうか。
単発の「ワークショップ」も悪くありませんが、その子の自信を育むためには、「継続的な取り組み×講師による応援(さりげない導き)」が必要なんです。
詳しくありがとうございました。教室の趣旨がよくわかりました。刺激と表現とを行ったり来たりの繰り返しで、見える世界が広がっていくような、そんな気がしました。お話を聞いていると、子どものとき、私もそんなふうに絵を習いたかったなぁ…って思いました!
K:教室の話をすると、よく大人の方からもそのように言って頂けるのがとても嬉しくて、ご要望も頂いたりするのですが、これまでは時間的な余裕も少なく、考えたことがありませんでした。
ただ、すぐにではありませんが、大人の方が集って、子どもたちと同じように、自由に表現を探求でき、互いの表現を称え合ったり、磨きあったりできる場があってもよいなぁと思い、検討しています。
また、個人的には、「デッサン」や「クロッキー」はとても探求しがいがあり、面白いと思っているので、大人向けのデッサン会、クロッキー会なども、そのうち開いていけたらと考えています。
いいですね!是非お願いします!
K:はい…。まだ確実なお約束はできませんが(苦笑)、まずは子どもたちの「研究室」が軌道に乗ってから、考えさせて頂きたいと思っています。
ご要望もありますので、「絵が描けない」と仰る方や、絵が好きだったはずなのに、子ども時代に苦手意識を持った、というか、私から見ると多分、「持たされた」なんだと思いますが、苦手や嫌いになってしまった方にこそ、絵を楽しむ機会を持って欲しいと心底願っています。
だって、絵を描くことは、誰にでも許されていることなのですから…!堂々と!
何だか勇気が湧いてきました(笑)
最後の質問になりますが、
K:2つの切っても切り離せない理由があります。
ひとつには、私自身がこれまで以上に技術を研鑽したり、制作に没頭したり、発表して世に問うたりできる環境をつくりたかったからです。
もうひとつは、授業の準備にもっと、たっぷりと時間をかけたかったからです。
子どもたちの前には、自分自身がいつも描くことで悩み、葛藤をしている存在として向き合いたいので、私にとっては、「制作活動を充実させること」と「教室の質を高め続けること」は表裏一体です。
「描くこと」と、「描くことを通して子どもたちの心を応援すること」を、どちらも天職であると心から思えます。
元来、私は何事もゆっくりじっくり、こだわりタイプでした。大学時代は設計の課題締め切りに間に合わず、随分と悩みました(苦笑)
組織に所属して、年々、色々な責任あるお仕事(教室とは直接関係のない事務・デザイン・広報など)を任せて頂けたことは有り難く、やりがいもありましたが、そんな性分なので、時間に追われる中で授業の質も維持せなばならないジレンマから抜け出せませんでした。
それなので、独立して、時間的なゆとりを持たせ、2つのバランスを取り戻したいと切に思うようになりました。多くの教室を持たせてもらい、生徒さんとの絆を重ねてきたので、苦しい決断でしたが、私にとってはその時間の長短にかかわらず、これまで受講してくださった一人ひとりの生徒さんは、かわらず一生応援し続けていきたい生徒さんであり、生涯の友人であると思っています。
共に学びあった皆さんと、切磋琢磨をつづけていく気持ちで、これからも頑張っていきます。
本日は色々とお聞かせ頂き、ありがとうございました。
「研究室」が賑わっていきますよう、心から応援しております!
K:ありがとうございます!